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西大寺鉄道 その17 〜大多羅駅〜 [廃線跡探訪]

 目黒橋を過ぎて、県道を南下していきます。この辺りの線路跡は、県道に完全に吸収されています。やがて道路の東脇に木造モルタルの小さな家屋が現れます。この建物はかつての「大多羅駅」の駅舎でした。
 外壁はモルタル、ドアや窓はアルミサッシ、しかも建物の周囲の地面はすべてアスファルトで舗装されてしまっているため、すぐには駅舎という実感がわきません。しかし隣接建物に面している建物北面の外壁は今も板張りのままですし、建物本体部分の瓦屋根も木造駅舎のそれらしい形状をしています(アルミのドアがある箇所は、廃止後増築した部分)。

 一見したところ、現在は地域の集会所のような使い方をされているようですが、もしかなうならば昔の駅舎の状態に復元し、歴史の語り部としてその存在意義を発揮させてほしいものです。

※写真=大多羅駅舎を南側から北望。線路は建物の左を通る歩道の位置で、手前(西大寺方)から奥(後楽園方)に向けて敷かれていました。駅舎は当時の姿に復元できないでしょうか?  


西大寺鉄道 その16 〜庄内川〜 [廃線跡探訪]

 JR東岡山駅から真直ぐ南南東に伸びてきた“駅前通り”は、やがて庄内川にぶつかって途切れます。そのすぐ東側を南北方向に走る県道が、庄内川を「目黒橋」で渡ります。

※写真=庄内川南岸から北望。正面・川にぶつかって行き止まりになっている道は、JR東岡山駅から真直ぐ伸びてきた「駅前通り」。

 西大寺鉄道が廃止されてから約15年後の1970年代後半に、庄内川では河川の改修工事が行われ、川幅が拡幅されるとともに、目黒橋のすぐ下流の部分には百間川への放水路も設けられました。

 この改修に伴い、目黒橋(道路橋)は従前よりやや上流(北東寄り)の位置に架け替えられ、橋の前後の道路部分は、曲線改良も兼ねてルートが変更されました。
 西大寺鉄道が庄内川を渡っていた鉄道橋の橋台は、右岸(北西側・長利駅側)については川幅の拡幅に伴い完全に撤去されたと思われます。また、左岸(南東側・大多羅駅側)については新たな道路橋の橋台設置に伴って撤去されたか、もしくは道路橋の橋台の奥に埋没したかのいずれかと考えられます。

※写真=現在の目黒橋を南側から北望。河川改修後、結果的に道路橋がもとの鉄道橋とほぼ重なる位置を通る格好になった。

 庄内川の南側では、線路跡は完全に県道の一部として吸収されていました。
 一面アスファルトで塗り固められていて痕跡はありません。ただ、周囲に田畑がまだまだ多く残っているので、辛うじて現役時代の光景を想像することはできました。
 また県道が水路を渡っている箇所が数箇所あったので橋台が残ってないかどうか確認しましたが、県道との交差部では水路は函渠(ボックス型のトンネル)化されていて、橋台を見つけることはできませんでした。


西大寺鉄道 その15 〜長利駅から庄内川へ〜 [廃線跡探訪]

 「遊園地」となった長利駅跡から線路跡に沿って更に南に進むと、道路の西側に、再び百間川の堤防が現れます。前に紹介した原尾島〜藤原間で百間川の河川敷を走った地点から少し下流で、百間川は大きく東に向きを変えます。
 藤原から財田にかけて西大寺鉄道は北東に向かいますから、百間川とはいったん距離が開きますが、財田以東では西大寺鉄道が南下するため、この長利駅付近で再び線路跡に接近します。
 
やがて線路跡は、この百間川の堤防上から降りてきてそのまま東に向かう新設の道路と交差します。この辺りから線路は駅前通りから徐々に東へ離れていき、芥子山の山裾を回り込む地点まで、一直線に進んでいきます。

 線路跡が駅前通りから離れ始める地点は、自動車の整備工場の敷地になっていて痕跡はありませんが、その工場敷地の南側を北東-南西方向に流れる水路の両岸に、鉄道橋の石組み橋台が残っていました。

※写真=自動車整備工場の南側を流れる水路に残る、鉄道橋の石組み橋台の跡。ちなみに奥に写っている自動車整備会社「シティライト」は、毎年の西大寺会陽に、従業員の方がたが大挙して社名ロゴ入りの鉢巻を締めて参加されています。

 さらにその南では、民家の裏手であり見通しは利きませんが、線路跡の低い土盛りが約20mにわたってレール撤去直後そのままの姿をとどめていました。土盛りの中ほどには、水路跡を渡っていた鉄道橋の石組み橋台も残っていました。土盛りの南端は民家で遮られていて、その先の庄内川は見えませんでした。

※写真=庄内川手前に残る営業廃止直後の姿をとどめる線路跡。北西から南東望。正面奥の民家の向こう側は庄内川。

 かつて西大寺方面から庄内川を渡ってきたディーゼルカーは、土手から下り勾配で駆け降りてきてこの土盛り部分を通過し、日射しを一杯に受けながら一面の田畑の中をまっすぐに伸びる線路を走り去り、やがて長利駅に停車する姿が遠くに望める・・・
 かつてこの地で毎日見られたであろう、今となってはある意味たいへんに贅沢な風景を思い描いていました。

 西大寺バスターミナル前に保存されているキハ7も、既に消え去ったキハ6も、かつてこの線路敷の上をゴトゴトと走っていたんですね。
 この土地を所有されている方が、かつてここに鉄道が存在したことの証しとするために、敢えて40年以上もこの「遺跡」に手を加えられなかったのだとしたら、本当に敬服いたします。

※写真=廃線跡の姿をとどめる水路を東側から西望。石組みの橋台の間、南側よりも北側の方が草がよく繁っている(といっても時節柄冬枯れしているが)のは、やはり陽当たりが良いせいでしょうね。

東側の山裾から、時折、電車の走る音が聞こえて来ます。赤穂線がかなり近づいてきました。


西大寺鉄道 その14 〜長利駅〜 [廃線跡探訪]

 JR東岡山駅の駅前通りを、国道250号との交差点を渡って更に南に歩くと、しばらくして道路の幅が急に広くなり、しかも道路の東側には街路樹付きの歩道まで現れます。
 この辺りから南は線路敷が道路と並行していたため、そのまま道路拡幅に活用されたことは容易に判断できます。道幅は広くなりましたが、既に東岡山駅からかなり遠ざかったため、走る自動車は少なくなります。

※写真=岩間橋のたもとに残っている「岡山近道」の道標。

 暖かな日射しをアスファルトが照り返しています。南南西に真直ぐ伸びる道路を歩きながら、44年前までの光景を思い浮かべてみました。
 フェンスで仕切られていない線路敷が未舗装の里道にぴったり寄り添って、細いレールの上をディーゼルカーが土埃を舞い上げながらコトコトと走っていた光景。

 途中「長利駅」跡は小さな児童公園になっていました。公園のフェンスには「長利遊園地」と書かれたプレートが設置されていました。

※写真=長利駅跡を北望。現在は長利遊園地。歩道の辺りが線路敷でした。

「遊園地」というと有料のアトラクションがひしめき合う規模の大きなレジャー施設をイメージしてしまう自分にとっては、少々違和感を覚えるネーミングでした。


西大寺鉄道 その13 〜関連書籍を参照される場合の注意〜 [廃線跡探訪]

このあたりで、しばし小休止とまいりましょう・・・

 西大寺鉄道の廃線跡に関する情報は、あちこちのネットや書籍等で紹介されていますが、
比較的影響の大きなメディアにおいても記述内容が誤っている場合があり、
実際に現地を訪れた際、この誤った情報が思わぬ阻害要因となることもあります。
 今後、そういう不運な思いをされる方が現れない事を願い、あえて書かせていただきます…
 ※正直、私自身もこの誤りのために(いろんな意味で)遠回りをさせられた1人です。

 ここではJTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩く3(原典では“3”はローマ数字)」初版の138ページに掲載された、線路跡の地図(以下「同書地図」と書きます)の誤りについて申し述べます。

 この地図に太い実線で示されている「廃線跡」のうち正確性の保証できる区間は、後楽園駅から森下駅の手前までの区間と、長利付近の道路に転用された区間の、2か所のみです。
 ただし後者についても、同書地図記載の「長利駅」の位置は、南にずれ過ぎています。

 それ以外の区間については、実際の線路跡よりも、(同書地図の縮尺でいえば)全体として5ミリメートル(実地では300メートル)程度、南にずれてしまっています。
 いくつかの地点を例示します。この場所↓も、線路跡ではありません(下記1. 参照)。

1.原尾島〜藤原間の百間川
  ・同書地図(誤)…現在の国道250号の百間川橋〔写真上〕の架橋位置が、ほぼ線路跡であるかのように記載。
  ・実際の線路跡…上記百間川橋と、そのひとつ上流の橋(原尾島橋)とのほぼ中間地点が線路跡。

2.大師付近
  ・同書地図(誤)…原図表記の地名「関」の文字の位置に大師駅があったかのように記載。
  ・実際の線路跡…原図表記の地名「乙多見」の「乙」の文字の左上をかすめる南西−北東方向の街路。

3.財田駅
  ・同書地図(誤)…駅前通りが国道250号と交差する地点と、JR東岡山駅との中間であるかのように記載。
  ・実際の駅跡…JR東岡山駅の南側に隣接していた。同書地図のように離れてはいなかった。

4.広谷駅〜砂川付近
  ・同書地図(誤)…砂川の西で、岡山市内(新京橋)と西大寺市街とを結ぶ道路と交差しているかのように記載。
  ・実際の線路跡…砂川の西側、赤穂線の南側に描かれている緩やかなカーブの細い実線1本の道路。
      (137ページの、赤穂線と並んでいる白黒写真からも、そう離れていないことは察知できます)

5.西大寺市駅
  ・同書地図(誤)…観音院の真西、現在の天満屋ハピータウン付近にあったかのような記載。
  ・実際の駅跡…JTBが編集時に地図に加筆した駅名表記「西大寺市」の「大」の文字付近。

 加えて言うと、136ページの「原尾島〜藤原間 E地点」とされ、手前に白いポリ容器が写っている路盤の写真も、正確には「藤原〜大師間」であり、場所も、地図上の「E地点」とは全然別の場所です。私は「E地点」付近で、この写真に写された光景をさんざん探し回り、結局、無駄足を踏まされました(T_T)。

なお、最近の改訂版で修正されている場合はご容赦ください。
但しその場合でも、旧版を既にお持ちの方は、十分ご注意ください。
以上、老婆心ながら。


西大寺鉄道 その12 〜財田駅から長利駅へ〜 [廃線跡探訪]

 JR東岡山駅の駅前広場の南のヘリを東西に走る道路に、かつての「財田駅」があり、国鉄との連絡駅の機能を果たしていました。また、この東岡山駅の旧称は「西大寺駅」でした。この駅と西大寺市街とを結ぶ西大寺鉄道の存在が実質的に前提となって命名された駅名であることが伺えます。
 この道は駅前広場の東端で民家にぶつかって途切れます。

※写真=JR東岡山駅(写真左端に駅舎)の駅前広場を西から東望。手前(大師方)から正面の家屋(長利方)に向けて線路が敷かれ、財田駅が設けられていました。

 現在のJR東岡山駅の駅前広場よりも東の地点では、線路敷は緩いカーブを描きながら徐々に南に向きを変えていました。現在、その線路敷は宅地化されています。
 ただ、このカーブの描く方向に沿って建物が建ち並び、また一部はカーブの形状に従って扇形の畑になっていることが確認できました。

※写真=財田駅東方のカーブを南東側から北西望。写真中央奥で新幹線が東西方向に走っています。西大寺鉄道は畑を手前(長利方)から奥の茶色い物置き小屋の方向(財田方)に、緩やかなカーブを描いて敷設されていました。

 カーブが終わって線路敷がほぼ南南東向きになった辺りは、ごく最近建ったと思われる新築の住宅数軒の敷地になり(ただし家屋の向きは線路敷の向きと無関係)、その南では線路敷は約30mほど、住宅地内の南北方向の街路となって、再び姿を現していました。
 が、街路の南端はすぐに小さな児童公園にぶつかって途切れ、その南側は線路敷と無関係に区画が設けられたため、痕跡は消失しています。

 線路跡は新しい家屋群に塞がれて通行はできませんが、線路敷の延長線上にはホームセンター「ナフコ」の大きな店舗建物があり、塔屋に「ナフコ」の看板が掲げられているのを確認することができました。
 余談ですが、JR東岡山駅から真直ぐ南下し中国銀行東岡山支店前の交差点に至る昔からの駅前通りは、幅員が狭く普通乗用車の離合すらままならない上、道の両側には大小の住居や商店が軒を連ねており、道路の拡幅は将来もかなり困難な様子です。
 西大寺鉄道の廃止直後にもし行政が線路跡を収用してうまく活用していれば、ゆとりある幅員の道路をひけたのでは、と思います。もう今となっては後の祭りですが。

 さて線路跡は「ナフコ」敷地を南に抜けて国道と交差します(痕跡なし)。

※写真=線路跡と国道250号が交差する地点を国道の南側から北望。線路跡は「ナフコ」の敷地に吸収されており、痕跡なし。

 国道250号の南側では、まず線路跡は国道に面した民家の敷地となり、更にその南側では、東西方向に流れる小さい水路を渡ります。
 水路北側を東西方向に通っている街路から水路南側に建つ各々の民家に進入するため、小さな橋が幾つも設けられており、また水路も護岸工事で両岸をコンクリートで固められていますが、線路が通っていたのでは、と思われる箇所に、わずかに石組みの部分が残っていました。これが本当に鉄道の橋台跡なのかどうか、断定はできませんが・・・

※写真=国道250号の南側の水路に見られた石組み。この小橋の真下に潜り込んでいるが、鉄道橋の橋台跡?

 先ほど述べた狭い駅前通りも国道を横切って、その狭い幅員のまま南南東に伸びています。時折後ろから車に追い越されるたびに、道の端にギリギリまで寄って立ち止まりながら歩いて行きます。
 この辺り、線路跡が東側から徐々にこの駅前通りに接近しているはずなのですが、線路跡は民家の敷地になって形状もくずれているため、位置は特定できません。


西大寺鉄道 その11 〜大師駅から財田駅へ〜 [廃線跡探訪]

 大師駅跡の南側には小さな畑が残っていて、畑の中には松の木が1本植えられた小さな塚があり、往年の「駅前風景」を彷佛とさせました。

 線路跡の道路は今や何の変哲もない街路ですが、歩いていると妙な違和感を感じます。
 線路跡の道路は南西から北東に向かっています。ところが宅地内の家屋や他の街路は、すべて東西・南北方向に整然と構築されているのです。従って線路跡の道路から見ると、両側の家は全部「斜向き」に建っている格好になります。
 多分机上の地図だけに頼って区画整理の設計をしたためだと思いますが、視覚・景観面で問題の残るプラニングなのでは、と感じました。とはいえ、法規制等もろもろの事情もあったのかも知れませんね。

※写真=大師駅付近。北東望。南北の方向に建っている家々は、線路跡の道路に対して斜向きに面しています。

 住宅地が途切れると、線路跡の道路は小さな水路を渡ります。
 橋台は橋桁の下に隠れていますが、おそらく鉄道の橋台をそのまま転用しているのではと思われます。水路を渡るとすぐに農家の庭先となり、そこで線路跡は一旦途切れます。

※写真=住宅地の街路(写真左方向から進んできた)が北東端で途切れる地点を南側から北望。水路を渡る石橋の橋台は、鉄道橋を転用したものと思われます。

 その農家の建つ区画の北東側に回ると、線路跡は地区の集会所と鐘楼の敷地になっていました。
 その東では線路跡は畑になっていましたが、線路敷の境界線がそのまま畑の境界線となって畑の中にくっきりと直線を描いていました。
 畑の境界線は小さな水路にぶつかって途切れ、水路の対岸(東側)は工場の敷地です。

※写真=畑の境界線となって残る線路敷の境界線。北東側から南西望。撮影者の背後には南北方向に走る水路を隔てて工場が建ち、線路の痕跡はこの先ことごとく消失。

 「ああ、もうすぐ東岡山か」と、心地よい疲れを実感しながら安堵の溜息。
 畑の中に残る線路敷の境界線がぶつかって途絶えたこの水路から東は、東岡山駅前の工業団地として一帯が開発されたため、線路の痕跡は東岡山駅の東方まで、一旦途切れることになります。

 工業団地内は整然と区画が整備されています。道路も工場敷地もアスファルトで塗り固められ、水路もシールドで掘削されているのがその円筒形の断面からも明らかであり、橋台が残存している可能性はほぼ絶望的であると悟りました。
 鉄道の名残りは「財田小学校」や「長岡郵便局」など、当時の駅名に採用された地名が今もなお使われていることで確認することになります。


西大寺鉄道 その10 〜藤原駅から大師駅へ〜 [廃線跡探訪]

 タクシー会社の車庫となった藤原駅跡の北東は、整然と区画された街並となり、線路跡は途切れます。
 しかし、藤原駅から大師駅を経て財田駅直前のカーブに至るまで、かつての線路は定規で引いたように一直線に敷かれていたため、現在断続的に残っている線路跡の道路を手かがりにすれば、その前後の痕跡消失部分についても、おおよその位置は推定できます。
 藤原駅跡の東側を南北方向に走る大通りを越えて少し東に、病院があります。その病院の東側を南北に流れる水路の西岸に、鉄道の石組み橋台が残っていました。

※写真=病院前の水路に残る石組み橋台。西望。

 この橋台の東側は区画整理が進み、線路敷は断続的に街路として、あるいは雑草に覆われた不整形地として現れます。宅地化した箇所でも、かつての線路敷の境界線がそのまま隣地との境界線となって、線路のあった位置と方向を示している、というケースも数か所認められました。

 ある地点では、線路敷が細長い平行四辺形の形のままマンションの駐車場になっており、その北東では雑草が生い茂った空地の状態で小さな水路にぶつかり、ぶつかった地点に石組みの橋台が残されていました。43年前までは、この橋台に橋がかかり、先の空地や駐車場にかつて敷かれていた線路をカタコトと走って来たディーゼルカーがこの橋を渡っていたんだ・・・と想像はしてみたものの、自分が思い浮かべた情景が果たして真実であったのかどうか、今となっては確かめる術もありません。

※写真=マンションの駐車場となった線路跡の東のはずれに残る、水路橋の橋台

 正八幡宮の北方で、住宅地の脇を走る未舗装路として再び現れた線路跡は、すぐその東方で舗装道路となります。途中、一部宅地化のため断絶する箇所はあるものの、両備が開発した新興住宅地の中の街路として、南西から北東へと貫通します。
 大師駅の跡は、この街路の途中にあります。

※写真=正八幡宮北方に未舗装路として残る線路跡。南西から北東望。


西大寺鉄道 その9 〜百間川から藤原駅へ〜 [廃線跡探訪]

 廃線跡が百間川を渡っていた地点よりも少し上流に架かっている道路橋「原尾島橋」を渡って、百間川の左岸(北東側の岸)にやって来ました。この左岸の一体どの地点に、線路敷が「再上陸」していたのかを推定します。
 一帯は区画整理が行われて新興住宅地化していましたが、よく見ると堤防のすぐ下に三角形の空地がありました。その三角地に下り立って、そこから北東の方角に目を向けると、周辺の街路が碁盤目のように東西−南北方向に直交しているのに抗うように、ある宅地と宅地の境界線がこれら周辺の街路の向きとは明らかに無関係な方向に走っているのが認められました。
 宅地の境界線はほぼ南西-北東の方向。もしやと思い、この境界線の北東側に回ってみました。

※写真=百間川の左岸(北東側の岸)の堤防上から北東望。線路跡は中央の三角形の空地から、その奥の黄色い外壁の家の敷地を通っていたと思われます。

 境界北東側の延長線上には、別の家屋が建ち塞がってましたが、さらにその家屋の北東にまわると、そこには小さな畑があり、しかも畑の中に数十cmの段差が南西-北東方向に形成されていました。その段差のラインを更に北東に延長すると、両備グループのタクシー会社「岡山交通」の車庫にぶつかりました。

※写真=畑の中に見られた段差。北東側から南西望。一段高くなっている箇所が廃線跡。
写真の奥が百間川方面(後楽園方面)で、撮影者の背後が岡山交通の車庫方面(西大寺方面)。

 この車庫こそ「藤原駅」の跡地であり、車庫は線路敷に沿ってウナギの寝床のように長い敷地になっていました。このことから、先ほど述べた堤防直下の三角地から宅地の境界線、畑の中の段差が、すべて線路跡であることが分かりました。

 この車庫の事務所の前面道路には、両備バスの藤原バス停がありますが、平日には1日1往復、休日運休という、およそ実用性に乏しいダイヤです。
 どうやら「西大寺鉄道廃止に伴う“代行バス”」との位置付けのようです。もしそうだとすれば、廃止後43年も「代行」していることになります。
 毛筆楷書体で「藤原」と書かれた古風なパス停のスタンドからは、西大寺鉄道を断腸の思いで廃止した当時の経営者の無念さと、時流に対するささやかな抵抗の念とがひしひしと伝わってくるようでした。

※写真=岡山交通の車庫を東側から西望。線路跡に沿って敷地が緩やかにカーブしています。


西大寺鉄道 その8 〜百間川(原尾島−藤原 間)〜 [廃線跡探訪]

 原尾島駅北東方、常夜燈のある交差点から北東に進んで暫くすると、線路跡と思われる街路は百間川の堤防にぶつかって途切れます。脇の石段から堤防に登ってみました。

※写真=百間川の右岸(南西側の岸)から南西望。線路跡と思われる街路(中央)のまっすぐ奥に建っているのが、両備グレースマンション。さらにその奥に原尾島駅跡があります。

 百間川は岡山藩主・池田光政が旭川の治水対策として開削した人工河川で、その名のとおり「百間」もの広い川幅になっています。
  〔“間(けん)”は、尺貫法での長さの単位。1間=約1.818m〕

 百間川は、大雨の時以外は流量も少なく、西大寺鉄道は河川敷に線路を敷いて走っていました。この少し上流では、JRの新幹線や山陽本線が長大で堅固な橋梁で河川敷ごと渡っていますが、それらとはあまりにも対照的なお伽話のような光景が、かつてここにはあったのです。

※写真=百間川の右岸(南西側の岸)から対岸・北東望。河川改修が進んだため、鉄道跡を感じさせる物件は何も残っていません。

 なお西大寺鉄道の線路は両岸の堤防に樋門を設けることによって通り抜けており、大雨の際は樋門に板を嵌め込んで水の流入を防いでいたそうです。堤防の内側(河川敷側)で線路敷になっていたとおぼしき箇所からは、堤防上に車が登っていくためのスロープが設けられていました。
 もしかしたら河川敷内での保線作業の際、また廃止後の鉄道施設の撤去作業の際、工事用自動車がこのスロープを昇り降りしていたのかも知れません。

 かつて線路が河川敷を走っていた箇所よりも少し上流にある「原尾島橋」という道路橋を渡って、百間川の対岸に出ます。先ほどの両備グレースマンションや河川敷に降りるスロープは対岸からも見えるので、これを手がかりに線路の位置を推定します。


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