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南海平野線 その5 〜苗代田・文ノ里・股ヶ池〜 [廃線跡探訪]

 線路跡の側道を平野方面に向けて暫く歩くと、高架をくぐった向こう側(高架道路の南西側の側道沿い)に「苗代田郵便局」が現れます。この付近に苗代田停留場がありました。

 さらに平野に向かって進むと、あびこ筋と鋭角交差します。その交差点の南東側に、地下鉄谷町線の文の里駅があります。南海平野線の「文ノ里停留場」があった場所です。
 カタカナだった「ノ」が、ひらがなの「の」に変わりました。

 あびこ筋の地下には地下鉄御堂筋線が走っており、谷町線との交差地点よりもやや南に、昭和町駅があります。文の里駅とあえて乗換駅にしなかったのは、乗換駅としては両駅間の距離があり過ぎるということでしょうか。それとも、1駅隣(谷町線だと2駅隣)の天王寺駅が乗換駅になっているのだから、元から不要…と判断されたのかも知れません。

地下鉄文の里駅の地上入口に、南海平野線の沿革を記した銘板が掲出されていました(写真)。

 平野線の存在の証しとして、非常に意義深いモニュメントです。しかしながら、建植されて26年が経過し、表面に剥離や錆びが目立って来ています。耐久性のある素材に更新された方がよいのではと感じるわけですが、さて、所有・管理主体は地下鉄(市)なのか、南海なのか、それとも? その辺が曖昧になっているとしたら、この手のアクションは鈍くなってしまうでしょう。

 文の里を過ぎて高架下の側道を歩くと、高架の向こう側に桃の花が満開の公園がありました。ここが「桃が池公園(写真)」で、平野線の「股ヶ池停留場」があった所です。

※写真は公園の園内から北東を望んでいます。写真左が阿倍野側・写真右が平野側。

 平野線はここで阪和線をアンダークロスしていました。阪和線が平野線を乗り越す鉄橋は、並行する鉄道と道路を乗り越す構造になっていました。

 なお阪和線は、現在線の西側に高架の新線を建設中であり、今年の5月21日に新線に切り替えられます。これに伴い、この乗り越し鉄橋も近い将来確実に撤去されることとなり、またひとつ、平野線の存在の証しが消え去っていくことになります。

※写真=南海平野線をオーバークロスしていた阪和線の鉄橋を南東望(手前が阿倍野方面・奥が平野方面)。手前の新しい高架には現在北行線のみ移っているが、南行線も5月21日には切り替えられ、この鉄橋も「廃線」となる。


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コメント 4

京都羅城門鉄道史料館

文の里⇔昭和町は御堂筋線のトンネルが浅いので(昔は掘割で地下ではなかった)作れなかったと言う話を聞いたことがあります。定期客の平野方面からの乗り換えは大抵平野線時代と同じく文の里⇔昭和町でしたね。
股ヶ池駅は阪和線との交差部です。ここからすぐ北の松虫通交差の阪和線の高架橋も鉄橋になってますが、これは戦時中の空襲の爆弾が直撃したためです。(美章園駅の石垣も同じ理由です。この駅にはそのときの犠牲者の慰霊の地蔵が奉っています。)
by 京都羅城門鉄道史料館 (2006-05-20 21:33) 

邁舞気流

>>京都羅城門鉄道史料館 様
コメントありがとうございます。
なるほど、昭和町のトンネルの浅さのために、連絡通路が作れなかった…確かにそうかも知れないですね。

股ヶ池駅の位置、ご教示いただきありがとうございました。また空襲のお話も初めて伺いました。美章園駅のお地蔵さんに、機会があればお参りすることにします。
by 邁舞気流 (2006-05-21 20:22) 

京都羅城門鉄道史料館

苗代田駅(郵便局のそば)を走る南北の通りは庚申街道と言います。平野線が走っていた頃は線路より南側はアスファルトではなくコンクリート舗装でした。これは戦前に昭和天皇が桃山中学(だったと思います。)に行幸した際に舗装したと聞きました。
by 京都羅城門鉄道史料館 (2006-05-21 22:41) 

邁舞気流

>>京都羅城門鉄道史料館 様
コメントありがとうございます。
地図を見ていたら、JR天王寺駅と四天王寺のほぼ中間に
「庚申堂」というお寺があるのを見つけました。
天王寺駅ができるより昔は、このお寺から苗代田の辺りまで一直線に道が繋がっていたのかも知れませんね。
by 邁舞気流 (2006-05-23 22:53) 

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